
同志社小学校の北に隣接した京都市左京区岩倉忠在地町では、 1970年代以来の小規模な発掘調査で弥生時代後期末〜古墳時代初頭の土器がみつかっていて、その一帯は「岩倉忠在地遺跡」と名づけられてきました。2004年秋に小学校建設に先立って同志社大学が試掘調査を行ったところ、やはり少数ですが古墳時代初頭の土器がみつかったので、本格的な工事の前に発掘調査を行いました。
調査をすすめると、弥生時代後期末〜古墳時代初頭(3世紀前半)と考えられる、方形の竪穴住居8棟や約 300もの柱穴群などがみつかりました。遺跡全体は江戸時代の耕作によって削られていて、はっきりと竪穴住居の形がわかるものはわずかでした。ただ、住居を支えていた柱の跡が調査区の広い範囲でみつかっていることから、これらの集落跡は、従来の岩倉忠在地遺跡の一部だとわかったのです。
竪穴住居の中には、床面に粘土の塊が置かれた状態のものがありました。おそらく土器・土製品の製作などの目的で住居内に粘土を蓄えていた跡でしょう。その周囲の調査区東半部では、いくつもの土坑や溝から同じような白い粘土の塊が出土しています。焼き物作りにかかわる作業が盛んに行われていた場所があったようです。
また、調査区の南西部で見つかった竪穴住居の内側には、木材や土が焼けたものが多く詰まっていました。屋根などの部分が火事などで焼け落ちて住居が埋まった跡のようです。焼けた土が屋根の木材の上に貼りついた状態が観察できました。このことから、この住居は木材や茅葺・草葺などの上に粘土をぬった「土葺屋根」だったとも考えられます。
さらに、住居域の北部に、長さ 1.2〜1.5m・幅0.7〜0.8mの大きさの穴が10基検出されました。形や埋まり方などから土坑墓とよばれる素掘りのお墓だったと考えられます。
この集落ができたころには、地域内の「王」を葬るための古墳がいろいろなところでつくられ始めたと言われています。このころの古墳は岩倉やまわりの京都盆地ではみつかっていません。また、発掘調査からは、岩倉忠在地遺跡の人たちが、集落のとなりに自分たちの小さな墓をつくっていたことがわかります。岩倉には、「王」がまだいなかったのでしょうか? それとも、この集落では普通の人々のためのお墓をいくつもつくる別の理由があったのでしょうか。
土器作りや墓のありかたなどの遺跡の様子は、 1700〜1800年前の人々の暮らしを知る手がかりとなります。
〔同志社大学歴史資料館〕

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