学校紹介

建学の精神[同志社の精神・同志社ゆかりの人々]

新島襄と同志社

1875年、新島襄によって
同志社大学の前身である同志社英学校が創立されました。

創立者 新島 襄
(1843-1890)

安中藩江戸屋敷に生まれる。国禁を犯しアメリカに脱国。帰国後、京都にキリスト教主義の同志社英学校を設立する。

同志社は1875年(明治8年)新島 襄によって創立された、キリスト教主義の学校です。「一国の良心ともいうべき人々を育成する」ことが新島襄の願いです。キリスト教を徳育の基本として、知育、体育にもすぐれ、個性豊かな良心を手腕に運用する人々を世に送り出すことに努めています。

新島襄は教育宣言の中で、「一国の良心」について次の様に述べています。

「一国を維持するのは、決して2、3の英雄の力ではない。実に一国を形成する、教育があり、知識があり、品性の高い人たちの力によらなければならない。これらの人たちは『一国の良心』と言うべき人たちである。そして私たちはこの『一国の良心』[良心の全身に充満したる丈夫(ますらお)]ともいうべき人たちを養成したいと思う。」

新島襄は1つの私立学校の創立者であったばかりでなく、明治という日本近代化の流れの中でキリスト教精神に基づいた指導的な思想家でした。

彼の教えを受け継いだ数々の教育者たちの手によって、人間性の根幹たるものを育もうとする、「同志社スピリット」とも呼ぶべき、独自の教育理念が確立されて行きました。この新島が理想とした教育理念は、140年を経た現代社会においても、色褪せるどころかますますその重要性を増しているでしょう。

良心教育を目指して

良心之全身ニ充満シタル丈夫ノ起リ来ラン事ヲ

良心碑
良心を手腕に運用する人物、一国の良心とも謂うべき人物を輩出したいという、新島の教育理念を表明した、同志社教育のシンボル。

同志社教育の原点は「良心」といえます。創立者の新島襄は誰よりも「良心」を高く評価しました。新島は9年間におよんだ欧米での生活を通して、キリスト教、とくにプロテスタントが文化や国民に与えた精神的感化がいかに巨大であるかを体得して帰国しました。そのひとつが「良心」で、これは「人間の目」ではなく、「神の目」を意識して初めて芽生えるものといえます。

つまり宗教をベースにした教育によってもっとも有効に触発されると考えられます。

新島から見て、日本の教育は知育に力を入れる半面、「心育」、今の言葉では「こころの教育」が疎かにされているといえます。

新島には、人は宗教的教育により「良心」を育みようやく「人間」となる、との信念がありました。

同志社大学から「精神なき専門家」(マックス・ウェーバー)や、「良心なき逸材」を生むつもりはありませんでした。「同志社大学設立旨意書」で、「一国の良心」を育成したい、と謳ったのもそのためといえます。新島は1学生への手紙の中で「良心の全身に充満したる丈夫(ますらお)の起り来(きた)らん事を」(良心が全身に充満した青年が現れることを)望んでやまない、と書いています。

この一節は、新島が期待する生徒像を鮮明にあらわしています。この言葉は「良心碑」に彫られ、同志社大学正門近くを始め、日米に9基存在しています。「良心教育」が同志社の建学の精神です。

同志社小学校のクラス名は
新島と同志社にゆかりの深い3名の人物にちなんでいます。

J. D. Davis(ジェローム・ディーン・デイヴィス)(1838~1910)

アメリカン・ボードの宣教師。新島のキリスト教主義学校の設立に賛同し、同志社英学校開校時には新島と2人きりで教員を務めました。1877年には同志社女学校(現同志社女子大学)を設立しました。京田辺校地の「デイヴィス記念館」に名前が残されています。

A. Hardy(アルフィーアス・ハーディー)(1815~1887)

新島が渡米する時に乗船したワイルド・ローバー号の船主。苦難の末アメリカにたどり着いた新島の脱国理由書を読んで感動し、物心両面にわたって惜しみない支援を与えました。新島がアメリカの父として慕った人物です。今出川校地の寒梅館「ハーディーホール」に名前が残されています。

D. W. Learned(ドウェイト・ウィットニー・ラーネッド)(1848~1943)

アメリカン・ボードの宣教師であり、経済学者、神学者。同志社大学第2代学長。半世紀にわたり、同志社で教鞭をとりました。京田辺校地の「ラーネッド記念図書館」に名前が残され、彼が愛した言葉"Learn to Live and Live to Learn"が建物に刻まれています。

新島 八重(1845~1932)

1875年10月に新島襄と婚約し、翌年1月3日に結婚しました。京都初の日本人同士のキリスト教式の結婚式でした。欧米流の生活スタイルが身に付いていた襄と、男勝りの性格だった八重は似合いの夫婦でした。新島襄はアメリカの養母であるSusan W.Hardy夫人への手紙で「彼女は見た目は決して美しくはありません。ただ、生き方がハンサムなのです。」と書き送っています。夫の死後、篤志看護婦となって、特に日清戦争、日露戦争では傷病兵の看護にあたりました。2013年度のNHK大河ドラマでは、主人公に選ばれました。

山本 覚馬(1828~1892)

会津藩士、砲術家。明治維新後は、京都府顧問として主に殖産興業に貢献。新島襄の同志社英学校設立計画を知り、旧薩摩藩邸の敷地を学校用地として新島に安価で譲渡しました。新島襄が永眠した後は、同志社臨時社長を務め、同志社の発展に尽力しました。新島八重の兄にあたります。

徳富 蘇峰(1863~1957)

生涯の師とあおぐ新島襄から洗礼をうけ、キリスト教徒となりました。同志社大学設立のための募金運動に尽力するとともに、新島襄の意を体して大学設立の趣意書を記しました。新島襄がなくなる際には、一切の遺言を蘇峰が筆記しました。なお、小学校の校庭には、徳富記念館(徳富旧邸)より株分けされたカタルパ(新島襄がアメリカから持ち帰ったもの)が植えられています。